モウコハン。

   

くも膜下出血 - それからの日々

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実家へ行ってからの日々。幼い子供たちを連れ、毎日せっせと病院まで通った。雪が降って峠道が凍結してしまった一日を除いて毎日、往復3時間の道のりを走った。それと同時に、寝る間も惜しんで母の荷物整理をした。

最初に医師から社会復帰の可能性が低いことを知らされ、母が借金まみれだという事実を知ったとき、母が生き延びても死んでも、どっちみちこの家は引き払わなきゃいけないと思った。

そう思ったら瞬間的に体が動き出した。

最初はとにかく家の中を大捜索。
何と何を払わなきゃいけないのか?
どんな借金があるのか?
保険はどうなってる?
パートはどうなってるのか?
年金は?

とにかく全部ひっくり返してみるしかなかった。わからないことは方々に電話をかけまくり質問攻めにするしかなかった。

とても一人暮らしとは思えないほど沢山の無駄な荷物の数々を、全て私の独断で要る物と要らない物に分け、要らないものは全部ゴミ袋に入れた。母の家具や家電など大きなものは近所の人にあげたり粗大ゴミとして出したり、有料で引き取ってもらったりして全て処分した。近くのお店でダンボールをもらい、必要最低限の荷物を詰めて引越し準備完了!

45リットルのゴミ袋にパンパンに詰め込んだゴミは、なんと60袋にもなって玄関先を埋め尽くした。

ゴミ収集日は夜明けとともに起き、子供たちが寝ている間に20往復くらいして全部のゴミをせっせと集積場所に運んだ。体が凍りつきそうな寒さの2月の早朝だというのに、汗ダクになる。

そんなことをする合間に母のパート先へ行き、私の独断で退職願を出し、制服を返却し、菓子織り持ってご挨拶。事情説明だけでも大変だ。

一週間ほとんど寝ない状態、休憩する暇もなく実家と病院の往復が続いた。
入院グッズを買って持っていったり、いろんな手続をしたり…予めわかっていれば楽なことも、急だと忙しい。

それに保険関係の書類請求やら借金の確認をしたり、滞納していた税金を支払いに役場へ行ったりと、やることだらけでテンテコマイだ。

これが私ひとりならまだしも、子供たちを連れての行動は時間もかかるし、何処へ行くにも次男を抱っこし、私の肩も腰も悲鳴を上げていた。4歳児と手を繋ぎ、乳飲み子を抱いて奔走する私の姿に皆が同情の眼差しを向けてきた。

でも、不思議と私は元気だった。もともと掃除魔の私にとっては荷物整理やゴミ処理は苦痛じゃない。子供の頃からやってきたことだ。それに「とにかく今やらなきゃ!」「私がやらなきゃ!」という気持ちで突っ走っていたような気もする。

狂ったように動きまわっていたくせに、そのときはそれほど疲れを感じることもなく、1つ1つ処理する毎に達成感もあったりして。

ただ、やっぱり一番気になるのはお金のことだった。母の病状よりもお金のことが気になっていた。

滞納しまくった税金は延滞金で倍額に膨れ上がってる。まるで自分の預金を引き出すかのように安易かつ頻繁に高利のサラ金から借り入れしてる。年金まで担保にして前借りしてる。そのうえ、昔から長年加入していた高額保証の医療生命保険は既に解約してしまい、薄~い保証の医療保険に1つだけ入っていることがわかった。

…ガックリ。




更に、私の出産後に実家近くの知人から頂いたらしき出産祝まで私に黙って着服していたことが判明。私はそんなもの頂いたことすら知らされていなかったので、お礼を言えていないし、もちろん内祝も送っていない。

挙句の果てには 私の奨学金返済のためのお金にまで手をつけていた。

何もかもが最悪だ。改めて、母の愚かさに怒りがこみ上げる。

一番堪えたのは、母の実兄である伯父さんにかなりの額をせびっていたという事実。まるで親の脛をかじるように、何度も何度もお金を送ってもらっていた。その額なんと、たった1年余りの間に120万円!

いい歳して何やってんだ!? もうホントに最悪!!

そんなに貧乏だったのかと思い、母の収入を調べてみたところ、そんな借金まみれになるハズがないほど十分な収入があった。そもそも私が独立してから今までの間にけっこうな貯金ができたハズである。数年前に退職したあと支給された失業保険だけで数百万ももらっている。その後は不安定ながらもパート収入があり、年金もあり… この田舎で暮らすには十分な額だ。借金するどころか貯金できるじゃん!!そのお金は一体どこへ消えたの!?

考えれば考えるほど、わからなくなる。

私だって結婚して完全に独立しているわけだから、当然、母からお金をもらったり借りたりしたことはないし特別恩恵を受けてはいない。それどころか、年に数回実家に帰省したときは自分たちの食費を渡していたし、洗剤などの消耗品を安く買って持っていったりもしていた。次男出産でコチラに来てもらうときは交通費を渡して母に負担をかけないようにもした。普通なら、そんなことまでしないだろう。

それで、なんでこんな状態なワケ???

探せば探すほど次々と出てくるブラックな現実に、怒りを通り越して呆然とする。それに加えてこの入院で高額な医療費の支払いが待っていることは間違いない。そんなの、私には払えない。仕方なく私は伯父さんにお願いしてお金を借り、なんとか全て精算することができた。もちろん自分のお金もあるだけ全部使った。今ほど子育て支援が充実していなかった当時、帝王切開で次男を出産したばかり。長男は幼稚園に入園する直前で出費のかさむ時…。

この歳になって親の尻拭いとはな…。馬鹿な親をもつと、子供は本当に苦労する。




怒り、悔しさ、悲しみ、疲れ…

そんな失望感と怒りに震えながら実家と病院を往復する日々。
運転しながら涙が溢れてきて止まらなくなり、やりきれない思いにハンドルを叩いてしまったこともある。峠道で何度 車を停めて涙を拭いながら深呼吸したことか…。

そんな姿を子供に見せるべきではないと思いつつも、我慢ができなかった。好きな音楽を聴きながらなんとか平静を保とうと………思えば思うほどダメだ。

面会でICUに入って母の顔を見ても、必要最低限の連絡事項を伝えるのが精一杯で、母を気遣うような言葉は一言も掛けられない。憎しみしか湧かない。

医師からは「2週間は安心できない」と言われていたものの、そんなに長く実家にいるわけにもいかない。お金もかかるし、夫を一人残してきたのも気になるし、どこへも遊びに行けず毎日連れ回される長男にも明らかにストレスか溜まってきていた。幼稚園の入園準備だってしなきゃいけない。

信じたくない事実がどんどん出てきて、溢れかえる母への怒りと、どうしても溜まってしまう疲労で、私の身ももたなくなってきた。一度、パワーを回復しに帰らなきゃ!

実家の荷物整理と支払いなど一通り終わらせた私は、まだICUにいる母を残し、自宅へ戻ることにした。

その日は快晴。観光客に人気の海辺…海に沈む夕日が綺麗な町だ。これがレジャーならどんなに楽しいだろう…

私があの独学浪人生活で苦しんでいた頃、母はこの実家を引き払い全く知らない別の地へ8年間移住していたので、その間、私には「実家」と呼べるような場所がなく、懐かしい同級生たちの住むこの地域からは完全に遠ざかってしまっていた。そして2年程前にまた母がこの家へ戻り、私はようやくまた”帰省”できる場所を得たところだった。 借家とはいえ、幼少期からあちこちを転々とさせられていた私が唯一、少し落ち着いて数年間過ごせた小さな町。もう接することはできないけれど、私という人間を形作ってくれた大切な人々のいる地でもある。

子供の頃に毎日見ていた輝く海を見ながら

私「キレイだね~。でも遊べなかったね」
長男「でもまた来ればいいよ♪」

でも もう、この海で遊ぶことは無いんだろうな…

我が子に感謝

この怒涛の一週間を思い起こしながら、ひたすら家へ向かって走った。もう体の力が抜けかけて、アクセルを踏んでいるのもダルくてダルくて、高速を走りながらもココで足を離してしまおうかなんて本気で思ったくらいだ。でもそれじゃ家に帰れない。私は運転するのは好きだけど、もうイヤ~!と叫びたくなった。

私「代わりに運転してくれる?ママもうダルくて運転したくないよ~」
長男「うん、いいよ。ぼくが運転するよっ♪」

その笑顔に救われる。子供たちを連れて体力的には大変だったけど、二人がいてくれたからこそ、私は頑張れた。長男は終始良い子で私について来てくれたし、次男も一切グズらないでいてくれた。私は子供たちに助けられたんだ。

このとき長男はまだ4歳。遊びたい盛りなのに文句ひとつ言わず、いつも私を励ましてくれて、何処へ行くにも弟を乗せたベビーカーにピタッと寄り添って静かに歩き、病院でも決して走ったり騒いだりグズッたりすることは一切なく、本当に良い子で私について来てくれた。決してお菓子やオモチャなどを買い与えてごまかしたわけでもなければ、叱ったりもしていないのに…。 普段からそういう子ではあるけれど、さすがにここまで我慢してくれるとは、親の私もビックリだ。そんな我が子に心の底から感謝している。いつか彼が大きくなったとき、このときのことを話して聞かせたい。

引っ越し

実家を出て数時間。ようやく高速の出口まで辿り着いたとき、
あ゛ぁぁー!!やっと着いたぁぁぁぁぁぁー!!長かったぁぁぁ~疲れたァァァァァ~ もーイヤっ!

10年分くらいの疲れがドッと出たような感じだ。
…とはいえ、家に着いたら着いたで車に詰め込んできた大量の荷物を運ぶのにまた一苦労。相変らずやることがイッパイだ。

そして2週間後にまた実家へ行ってその日だけで母の引越しを済ませてしまうことに決めた。それまでの間も引越し屋さんを頼んだり、実家の電気などを止めて精算方法を段取りしたりと、まだまだやることがイッパイ。寝室として使っていた部屋を母専用の部屋にするため自分たちの荷物を移動して掃除して…

あっという間に2週間が過ぎ、いよいよ再び実家へ。夜明け前に家を出て実家へ行き、引越し屋さんに荷物を引き渡して大家さんに鍵を返却し、母と親交のあった人々のお宅へ挨拶周り。こういうことは悔いのないようにしっかりとやっておきたい。今後もう会うこともない人々に、これまで母がご迷惑をお掛けしたであろうことを謝り、感謝の気持ちを伝えてきた。

あっという間に夕方になり、急いで病院へ。前日から一般病棟に移っていた母のところへ必要な荷物を届け、医療費の請求書を受け取り…

私はここで初めて、今後のことを母に話した。

医師から社会復帰の可能性が低いと告げられたこと
母のお金関係のことは全部調べたこと
借りていた家は引き払い、今日引越し作業を済ませてきたこと
パート先に退職願を出したこと

…母は涙を流しながら私の話を黙って聞いていた。
「わかった」と一言だけ言った母はそれで済んだという顔をしていたので、それがまた私には許せなくて…

アンタのために私や子供たちがどれだけ大変な思いをしたか、わかってんのか!?

怒りが込み上げる。多額のお金をいったい何に使ったのか、ちゃんと説明する責任がある。「ちゃんと言わないなら退院しても迎えに来ないよ!」

でも母は 「わからない」
これでこの話を終わらせようとしている。ますます怒りが込み上げる私。

もう時間もなかったので、「退院するときにちゃんと話してよ!言わないなら面倒みないから!」と言い残して病院を後にした。やっと病院を出た頃には、もう外が暗くなりかけていた。途中、お弁当屋さんでオニギリを買って食べながら家路を急いだ。

その後、実家から届いた母の荷物を解いて母が退院してきたらすぐ使えるように収納しテレビを繋ぎ布団を用意し…

大変だったけど、これでようやく一段落。あとは母の退院を待って迎えに行き、いろんな手続をするだけだ。それからお金のことも…なんとかして片付けなきゃ。あぁ、やっぱりまだまだやることがイッパイだ。

それから約2週間後、母が退院した。その後も住民票異動などのため再び実家へ。結局、この1ヶ月の間に4往復もした。そのうち3回は日帰り。もうちょっと近ければ楽だったのに…交通費もガソリン代もバカにならない。



避けては通れない話

母との同居が始まった翌日、母が有耶無耶に済まそうとしているお金の話を、私から切り出した。

母がしてきたことはもう全部バレている。どれだけの収入があったのかもバレている。なのにそのお金を一体どこへやってしまったのか?
母にはそれを説明する責任がある!

でもやっぱり、母は何も話そうとしなかった。

私は母を責めて責めて責めまくった。母はうつむいたまま、私の顔を見ようとしない。「わからない」で済ませようとしている。私はもっともっと責めた。かなりキツイ言い方をした。そしてようやく母の口から、真実だろうと思われることが明らかにされた。

忌まわしき過去

定年前に正社員として働いていたときの給料は、その当時可愛がっていた年下の若い夫婦にあげていたという。赤の他人にお金を「あげる」心理って私には到底理解できないが、母は昔からそういうことをしてきた。バカとしか言いようがない。よっぽどお金の有り余っている人ならいいだろうが、母はほんの少しの余裕しかないのに他人に多額の金を「あげる」。 先のことを考えず軽い気持ちでやってしまう。実の子である私よりも他人を優先する。そんな親のおかげで私はさんざんな目にあってきた。

勉強が好きで中学時代に優等生だった私は幸いにして無利息の第一種奨学生として認められて公立高校時代はその奨学金を借り、せっかく現役で合格した大学には入学させてもらえず、もちろん予備校にも行けず、掛け持ちのバイトで生活費を稼ぎながら独学貧乏浪人生活を送り、その後、自分の夢を叶えようと入学した専門学校時代にも奨学金を借りていたため、卒業後には2つの奨学金返済が待っていた。

成人式には同級生たちが皆、親に用意してもらったキレイな振袖を着てくるなか、私は自分のバイト代で買ったスーツを着て行った。惨めだった。母の口からは振袖の「ふ」の字も発せられることはなく、そもそも成人したことについてのコメントも一切なかった。
そして私が結婚するときは嫁入り道具もお金も一切無し。何もかも見事なまでにゼロだった。

私自身、決して贅沢を望んだわけではないと思っている。”普通”が羨ましかった。

でも、私の努力とその結果だけではどうにもならないことが沢山あった。私ががむしゃらに勉強したのは、奨学金という名の借金をつくるためではない!!

”女手一つで…”は理由にならない。当時の母はそれだけ稼いでいた。そういう時代だった。そもそも未婚で私を産んだこと自体、母の身勝手だ。何の覚悟も努力もせず、祖母や伯父さんからは度々多額のお金を受け取っていた。でも、それらのお金は決して蓄えにはならなかった。何度となく実兄に泣きついて受け取った多額のお金も、母のタバコ代、酒代、パチンコ代、通販などでの無駄遣い、そして赤の他人への奉仕にまわっていたのだった。

…そんな昔の記憶が、一気に蘇ってきた。

ロクでもない親の元に生まれてしまったがために、どんな努力も無にされ、大人になってもずっとその呪縛に苦しめられいてる。無いもの尽くしでギリギリ歩んできた人生の後遺症に苦しみ、重い手枷足枷になっている。取り返しのつかないことばかりだ。

それでも、私はこうして真面目に、懸命に生きている。過去の全てが、今の私を形作っている。
…今はそう思うようにしている。でも、あのとき流した悔し涙は一生忘れることができない。母は私にとって人生最高の反面教師だ。我が子たちには絶対にそういう思いをさせたくない、と強く思う。

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親が病気になったとき
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